ひとつ、ふたつ不安と心配が消えてホットした

昨日の夕方、父の主治医から電話があり、父の状態を伝えられてホットした。

電話が鳴った時、番号を見て不安が襲ったけれど、大丈夫だった。

 

母が入院中は、病院からの電話は怖くて出たく無かった。

主治医との話は悪い内容ばかりで、本当に疲れた。

 

父の主治医の話では、手の腫れもひいてきて随分と良くなっているそうで、リハビリもやってくれていると聞いて安心した。

炎症の数値がまだ少し高いため、1月21日(木)に検査をして、良くなっていれば退院を考えていきたいが、急いで退院では無く、父の状態を見ながら退院の準備をしていきたいとのことでした。

 

昨年の父の心不全での入院と、その後の事を看護師に詳しく話したから、主治医も気遣ってくれているみたいで嬉しかったし、安心して気持ちが楽になった。

 

 

私も昨年11月30日に入院してから仕事を休んでいる。

私は飲食店のパートの仕事を2つ掛け持ちでやっていて、入院中も、退院してからもずっと仕事に戻るか辞めるか悩んでいた。

 

倒れて病院に運ばれた時に、「もう仕事はしたくない!!」って叫んでしまったぐらいに、職場の環境で悩み、ストレスも随分と溜まっていたから。

夜のパートの方の問題だけれど、昼間のパートも辞めた方が良いように思えたし、そういう方向で考えていた。

コロナウィルス騒動で時間短縮営業や売り上げが減り、人件費削減で仕事に入れる人数も減って殺伐とした気を感じるようになった。

あまり仕事に入っていなかったパートやバイトも仕事に入りたがるようになり、たくさん入れてくれている私に向けられる目や態度、言動が変わってきてしんどく感じるようになった。

暇なら休憩に入るのは私、早上がりをするのなら私。

入っている日数は他の皆よりも多いけれど、1日に働く時間が他の人よりもぐんと短くなった。

社員も様子を見て休憩に入ってくれていた。

 

店長にどうして皆、平等に休憩や早上がりをしないんですかね?って言われたけれど、それはお金を欲しい人が増えたから。

2時間とか、2時間切るぐらいなら休みにしてくれて1日の時間を長くしてくれた方がよっぽどましですと去年、倒れる前に怒りながら私は言った。

 

以前は昼も夜もメインで仕事に入っていて、雇用保険に入っているのも私だけ。

社員の突然のヘルプに応える事も多かった。

 

18年の3月に乳癌という事がわかり、4月から抗がん剤治療を始めた時も、9月に手術の予定があるため早くから休みに入りたいとお願いをした時も、抗がん剤の影響で痛み止めを飲んでも身体の痛みが消えなくてしんどかった時も、パートやバイトは自分達の都合を優先して仕事にあまり入らず、身体の限界を感じていたお盆過ぎ迄働いた。

ひどい時は2週間、3週間近く休みが無かった時もある。

 

コロナウィルスで店が暇になってきてから昼のパートの中に嫌な空気が生まれてきて、昨年の6月、私は他の店で昼間だけ働く事にした。

パートもバイトも、他に仕事を探す人はいないし、私は昔から入退院を繰り返しているからいくつかの職種、職場で働いた事があるため、仕事は見つけられるし、環境にも慣れる事ができると思ったからすぐに行動した。

 

だけど、それが良かったのか悪かったのか。

自分達にはここしかない、あなたにはもうひとつの働く場所があるからいいよねと言われる。

仕事を覚える事も、合わせていかなければならない人や物事も増え、仕事に入るための準備や移動も負担は倍増した。

良いことと言えば、新しい昼間の職場は忙しく人手を必要としていた事と、気が合い仲良くしてくれ助けてくれる人も多い事。

 

夜の職場の問題はそれ以外にもたくさんあって、昨年の春頃からママさんも店に入るようになって一緒に仕事をしてきた。

パートやバイトの店の運営の状態が良くないと指摘され、随分と変更と改善を試みていたママさんだったけれど、小柄な女性だからか、少し舐められてる感じもして、私もバイトに怒った事もある。

私が倒れる直前にオーナーも怒っていた。

1月から店に入って改善していくから、仕事をやりたくない、やれない人は辞めていっていいと。

問題がさらに深刻になった、さらに殺伐とする環境になるんじゃないかと思った。

そう思っていた矢先に倒れて入院した。

 

仕事に戻るか辞めるか悩んで動けなかった。

1月いっぱいは仕事はしないという事にしたけれど。

2月の前半のシフトの予定を出す締め切りは20日。

 

16日(土)に長男から父の様子を心配して電話が掛かってきた。

そして、私が仕事に戻らず休んでいる事、そして辞めようか悩んでいる事を話したら、

「お前は馬鹿でアホでお人よしで、すぐに信用して駄目になる弱者だから閉じこもっていた方が無難だわ!!振り回されてばっかりだろう!!」

って怒られた。

ひどい、ひどすぎる。(泣く)

でも、当たってる。

強いようでいて、本当は弱いのよ。

吐き出す事ができず溜め込んで自爆。

 

でもね、私には弱みがあるから。

治らない持病があって、入退院も繰り返すし、死んでしまうかもしれない。

稼がなくちゃいけないから働きに出るだけで、仕事の取り合いみたいになったり、殺伐とした環境になると身が固まって逃げ出したくなるの。

過去に、入院したから信用できないからあまり仕事に入れない方が良いってオーナーに言うパートがいたり、病気を持っているなら、突然休まれても困る迷惑だと言うパートがいたり・・・

 

当たってるから反発もできなくて心は痛むばかり・・・

 

私の病気は特定疾患も受けられなければ、障害者にもなれず。

親や子供達がいたから生活保護は避けたくて、仕事をいくつも変えながらなんとかやってきたけれど。

 

ずっと逃げたいと思っていた。

健康な身体を持つ人が、入院をしないでいられる人が羨ましいと思っていた。

 

病気を持っている人はいらないと言われることに対する恐怖、これもある。

 

いろいろな事がグルグルと頭の中を回って気持ち悪くもなった。

 

でも、悩んでいるから苦しくなる。

 

とりあえず職場に行って話しをして、それから決めればいいと自分を励まして勇気を出して一昨日の18日(木)に2つの職場に行ってきた。

まずは昼のパート先に行き、店長にお詫びと夜のパート先の問題と辞めようか悩んでいる事等を話したら、まずは夜の職場の人と話をして、どうしていくのか決まって、あなたの状態が落ち着いたら連絡を下さいと言われ、ホットした。

そして勇気を出して夜の職場へ行った。

昨年、倒れる前に私が何度か怒ってしまったことや、この環境で働くのはもう無理と言っていたので、先に辞めようかと思っていると伝えた。

すると、私が休んでいる間に少しずつ変化もあったようで、辞められたら困るので辞めないで下さいと言われ驚いた。

30分程時間を頂いて話したが、これまでの出来事の不安を消し払う事ができず、少し考えてから返事をする事にして帰った。

 

そして、20日は翌月前半のシフトの予定を出す締め切り日。

2つの職場に今まで通り提出した。

特に自分の予定や要望はないのでお任せしますとメモを残し、時間短縮営業のため、たくさん入れなくても大丈夫ですと付け加えた。

 

暫くして、2つの職場の店長からLINEが同じくらいに届いた。

ありがとうございますと。

助かります、宜しくお願いしますと。

 

過去の出来事に囚われて、勝手に一人で妄想し、不安になって悩んでいただけっだったみたい。

過去の人達とは相手が違う。

勇気を出して話して良かった。

ホットした。

 

でも、これからは無理を重ねないように仕事をしていこうと思う。

そして、自分の中に溜め込まずに過ごしていけるようになりたいと思う。

 

皆が笑顔でいられるように、自分が軽やかに明るくいたい。

そのためには相手にきちんと伝えるという事が大切なんだなと、あらためて思った。

 

父の件も、職場の件も。

これらの件は悩まずに明日から過ごせます。

少し気持ちが楽になりました。

感謝

 

 

面会ができないのは辛いこと

昨日、入院中の父の病棟に行ってきた。

コロナウィルスのせいで父に会う事はできなかったけれど、看護師と話しをしてホッとした。

 

昨年の8月20日、心不全で緊急入院した父は不安と恐怖で萎縮し、衰えていく一方だった。

173センチの父が40キロまで痩せてしまった。

 

出来ていた事が出来なくなり、食事もろくに取らず、諦めと悲観にくれ、もう家には帰れないのではないかと、死んでしまった母と自分を重ね、ストレスからか母と同じように血便をするようになった。

 

自分の事は自分でやれていた人が、初めて介護の申請をし、要介護3の認定を受けた。

私も父の状態を見ていたら絶望的にも感じた。

身体の衰えだけでは無く、痴呆もあるかもしれないと思えたから。

 

主治医や看護師、ソーシャルワーカーやケアマネと父も同席してのカンファレンスでは、主治医や看護師の評価は悪く、家に連れて帰るのは無理だから、リハビリができる病院に転院するか、施設に預けた方が良いと勧められた。

私の病気や負担を考えての事だろうが、母と同じようになるのは嫌で父を孤立させたくなかったので家に連れて帰る事に決めた。

 

私の言葉を聞いた父の表情はパッと明るくなり、今すぐ帰ると言って、車椅子から立ち上がって歩き出そうとするぐらいの活力を感じた。

 

5日後の退院日では随分と元気になっていて、自分でパジャマから私服へ着替える事もすすんでやり、ふらつきはあるけれど一人で歩いて見せた。

 

血便があった時に検査を拒否するから原因はわからなかったけれど、血便はなくなり、家に帰ってからはどんどん元気になった。

体重も51キロまで増えた。

 

 そして退院後の3日目からデイサービスに通ってリハビリを受け、随分と良くなり自分の事は自分でやれるようになった。

 

飼い猫に噛まれた傷で手がグローブのように腫れて強い痛みを感じるようになる前までは、パンツも普通の下着でオムツは使わずトイレでやっていてくれた。

今は手が動かないから介助をしてあげればトイレで用は足せる。

 

看護師に昨年の入院から、今までの状況等の事を聞きたいと言われたので、思いつく限り話して伝えた。

 

父にも入院した日には何度も話して伝えた。

やれる事は自分で動いてやってね。

手は動かなくても足は動くんだから、トレーニングパンツの中でオシッコをするのではなく、看護師に手伝ってもらってトイレに行ってね。

ご飯もしっかり食べてね。

去年のように、やれるのに、やれなくなってしまうのは悲しい事だよ。

気持ちはしっかり強く前向きでいてよ。

等々・・・

 

だから心配していた。

大丈夫だろうかと。

去年は面会の許可をもらえたから毎回会えたけれど、今回は面会ができないため父の様子がまったくわからない。

 

看護師には思いつく限りの沢山の事を伝えた後、大丈夫ですよ、トイレに行って用は足しているし、ご飯もしっかり食べてくれています。自分でやろうとしてくれていますよと、父の様子を聞いてホッとした。

 

本人の顔を見て話す事ができないから、勝手な妄想が膨らんでしまって本当に疲れてしまう。

 

コロナウィルスのせいで家族の面会ができないという事は、本当に辛くて悲しい事。

昨年11月30日から入院して本当に強く思った。

同じ部屋だった患者さんは高齢のお年寄りばかりで、孤独になり寝たきりでどんどん悪化していくように思えた。

リハビリの先生が来ていても、意欲が出ない様子で上手く進展しない人。

親や子供の名前を呼び、独り言も増え、助けてください、お願いしますと大声を出したり、お経を唱えたり。

感情を看護師にぶつけてしまう人もいたり。

気持ち、精神が弱まっていくのか。

消灯の時間になると、睡眠誘導薬を飲んで早く眠ってしまわないと自分の精神もやられてしまうのではないかと本当に思った。

明るい日中は大丈夫でも、電気が消された暗い部屋では耳を塞いでしまいたいたくなる。

 

これまでの入院生活とは環境、状況が随分と違う。

マスクをしての入院生活も辛いものだった。

 

父の精神状態が気になるけれど、気持ち、心が負けないように、会えなくても頻繁に病院に行こうと思います。

明日は毎日の血圧や脈拍、体重などの記録をする心不全の手帳を病棟に届けに行きます。

 

来たよ、という証になるものがあるだけで、気持ちを強く持ってくれるはず。

父の好きなおやつも、持っていこうと思います。

 

 

生き方を変えるチャンスは今しかない

母が死んでもうすぐ1年が経とうとしてる。

 

長いようでいて、早回しで速度を上げてコマをまわしているような、

どこで息をしたらいいのかわからない、短く感じる1年だった。

 

暗い沼底の泥を吐き出すような、苦しくしんどい1年だった。

 

母の葬儀を終えた晩に兄の家で皆で食事をした。

写真や動画も撮った。

お酒の力も加わって、プロレスごっこのようにジャレたりもした。

 

私は仲違いしていた兄妹が、やっと仲の良かった子供の頃に戻れたと思った。

長い年月が掛かったけれど、やっと、どんな事でも共有でき分かち合える。

嬉しい、楽しい、幸せなどの喜びや潤いだけでなく、

悲しい、辛い、苦しいなどの痛みや困難。

私も限界がきていたから、これからは皆、一緒にと、そう思ったし、願った。

 

身体も、精神も、経済もボロボロ。

気を抜いたら崩れ落ちて壊れてしまうのではないか、そんな状態だった。

 

もう、大丈夫と、信じようとしていた。

 

でも、心の底では、疑いと不安も入り混じり、心の開放はできなかった。

 

母が2018年11月12日に入院をしてから2020年3月28日の亡くなるまで、いくつもの選択と決断をしなくてはならなかった時、負担が重くて苦しくて押し潰されそうになった時、兄妹、息子達にLINEで叫んだ。

 

私自身も癌の治療の真っ最中、母の入院中に持病の膵臓で2度も入院してしまった。

母を守れるか、不安と恐怖、悲鳴にも近い、祈る気持ちで叫んだ。

 

叫んでもなかなか誰も響いてくれない。

自分達の事で精一杯。

誰も事の重大性に気付かず危機感もない。

 

母が足の傷の壊死の治療の為に入院をしたのは、私の入院中だった。

私の病室に父が車椅子に乗った母を押してやってきた。

 

2日程前に救急外来で診てもらったらしいが、傷もよく診なかったのに整形外科の受診外来の予約を入れて、それが今日、これからだと言う。

 

私は母の靴下を脱がして足の甲の傷を見た。

腫れて赤黒いというか、紫色というか、なんと表現をしたら良いのか、素人の目から見ても異常、おかしいと思った。

 

どうして整形外科なの?

これはどう見ても皮膚科でしょう?

何故、傷をきちんと見せなかったの?

検査とか何もしていないの?

 

母は痛い、痛いと言うだけで、足の傷が痛いと、足の傷がおかしいという事を上手く伝えれなかったらしい。

もともと整形外科にもかかっていたので、担当した医者は、足の傷をきちんと診ることもしないで、整形外科の外来受診の予約を入れたらしい。

 

年寄りはというと語弊があるかもしれないが、本当に母や父は年々、年を重ねるとともに、言葉足らずで単語ばかりが増えて、気付いて理解してあげる事が大変になってきた。上手く伝える事ができないと、口を閉ざして話す量も減り、そして会話をする事が難しくなる。

 

 私は点滴棒を連れながら母の車椅子を押して、整形外科の外来受診に向かった。

呼ばれて診察室に入ってすぐさま、

「申し訳ないんですが、整形外科じゃないと思います。救急外来を受診したらしいですが、足の傷をよく診ないで整形外科の受診予約を入れたみたいで。皮膚科だと思います。診て貰えますか?」

 

そう言うと、診てくれた医者も。

「そうですね、足が壊死していますね。明日、皮膚科で診て貰って下さい」

と言って皮膚科の受診予約を入れてくれた。

と、言うか、それだけだった。

 

そして翌日、父が車椅子に乗った母を連れて私の病室にやってきた。

私は相棒の点滴棒を引き連れて、母の車椅子を押して皮膚科へ向かった。

怒りを抑えながら診察室に入った。

 

母の足を診て、これは壊死していますねと言った。

足の指などが冷たいと。

 

傷を洗って塗り薬を付けて手当をしてもらったが、今日はこれで終わり、これからは外来で通院治療していきますと言ったので私はブチ切れた。

抑えていた怒りが爆発した。

 

救急外来で上手く伝える事ができなかった母や父もいけないが、症状を聞き、診て確認をする事もせずに整形外科の受診予約を入れ、まともに検査もしていないのになにが通院で治療をしていくだっ!!

足が壊死していると言った!

本人を見れば、通院で治療ができるような状態じゃないでしょう!!

今日これからすぐ入院する。ベットを用意して!!

そして今できる、必要な検査をやって!!

 などと怒り叫びまくった。

 

命に関わる事だってあるんだ。

先生達は責任が取れるのか?

先生達の名前と顔はよぉく覚えたから。

 

医者や看護師達が慌てて動き出した。

 

今、病棟の病室が一杯で入る事ができません。明日は日曜日なので、明後日の月曜日なら個室の部屋なら用意する事ができますが、1日1万3千円します。

どうしますか?

と、言ってきた。

 

1日、1万3千円はとっても痛いが、母の足の方が大切なので承諾した。

大部屋が空き次第、移動させて欲しいと何度もお願いをして個室の確保をしてもらった。

 

暫くしたら看護師が来て、これからいくつかの検査をするようにと、用紙を持ってきて説明を受けた後、私は母を連れて検査室を回った。

父は疲れたようで、待合室で座って居眠りをしてる。

高齢になって、我が身も弱まっていく中、人の世話をするのは大きな負担になってきているのだろう。

 

母が入院をしてきて、私は主治医に頼んで早々に退院をした。

ベットの上でゆっくりしている場合じゃないから。

退院してからは毎日4~5時間、どのような状態なのか心配で油断ができないと思い、皮膚科の母の部屋で過ごした。

 

入院した日に主治医から足の付け根から血管が詰まっており、血液がつま先までよく流れないため、傷が治らず壊死していったと言われた。

そして、MRSAに感染していて抗生剤が効かないため、壊死は進行していく可能性があるため、足を切断した方がいいと言われた。

 

何が通院で治療していくだ!

入院して正解だったでしょう!

検査をしておいたから今日、結果、状態がわかったんでしょう!

簡単に足の切断なんかしないし、させない!

足の切断をしなくても治す方法を探して考えて!

 

怒り、吠えまくった母の長い闘病生活の始まりだった。

そして、緊迫した毎日の始まりで、緊張が解けていくどころか、試練であるかのように次から次へと問題、困難が訪れ、向き合っていかなくてはならない毎日、吐きそうなぐらいに逃げたいと思う毎日の始まりだった。

 

母が70歳の頃に脳梗塞で要介護3になった時は、兄妹に知らせず、頼らず何とか乗り越えることはできたけれど、今回だけは無理、超無理。

自分で自分を信頼する事ができず、不安と恐怖と萎縮。

そのような状態の中で光を見つけていくには一人では無理、希望や勇気、活力を得ていくには兄妹、そして息子達の協力を得たかった、私は必要としていた。

 

だから必死で訴えた。

 

遠く離れた所で暮らす妹は、時間を作って母の見舞いに来てくれたり、金銭的援助をしてくれたし、今も続けてくれている。

我が親のためにと。

できる範囲で協力をし力になると。

 

車で20分位の所に暮らしている兄は、私がうるさく、しつこく訴えてやっと動いてくれる、そんな状態だった。

忙しい、お金はない、頼むぞ。

兄嫁も母が入院して1度しか見舞いに来ず、3千円を差し出して、少ないけれど役立ててと。

 

母が亡くなるまでの1年4ヶ月の間、兄妹の出てくる言動を観察していると、それぞれの思い、考え方、そして昔の記憶の違い、そして受け止め方の違いがある事に気付いた。

 

妹とはわかり合え、共有することはできても、兄とは絶縁する結果となった。

 

母の闘病生活、死という悲しい出来事が引き金になり、隠されていた事が妹の口から暴露された。

 

母のお通や、葬儀の時の兄や兄嫁、妹の私に気付かれないようにコソコソとやっている姿、そして私に対しての言動が違和感を感じていた。

 

嫌な予感がする。

 

私は前に出ない方がいいと思い、長男に私の代わりを任せ、お通やと葬儀の進行や管理を兄と一緒にやるように頼んだ。

そして、長男のフォローをするように次男に頼んだ。

 

お通やの時にも長男に言われた。

お前が出るとややこしくなる。

お前と兄や兄嫁と思いが違う。

記憶の在り方、受け止め方が違う。

ばぁちゃんの葬儀を無事に終わらせるために、お前は静かにしていろと。

 

そして、葬儀が終わった晩、兄の家で皆で食事と酒を楽しみ、やっと仲の良い家族、関係に戻れたと思っていた矢先、妹がプルプル震えながら、泣きながら溜め込んでいた思い、私に知らせなかった事を、皆の前で毒を吐き出すように暴露した。

 

そして兄からは縁を切ってほしいと言われ、ばぁちゃん子だった長男は兄をぶん殴った。

 

そして私は、期待や希望がぶち壊されたようで、怒りだけでなく、不安や恐怖がさらに大きくなった。

 

終わりの始まり。

 

母が死んで1年近く経つが、私は泥沼に引き戻されたようで、もがけばもがくほど沈んでいく、その泥沼からどうしたら抜け出せるのか、自問自答しながら母に答えを導いてもらえるように祈り、願う毎日を今も過ごしている。

 

そして、母は私に大変な役割、大仕事を残していった。

 

今も自分自身を整理できず、試されるかのように次から次へと起こる出来事に挫けそうになる。

 

やりたい事や、やらなくてはいけない事は沢山ある。

どれが自分の本心なのか、見失ってしまいそうな時もある。

 

母の死後、昨年、私が6月に入院をした後、父が8月に倒れ2ヶ月の入院をし、要介護3の認定を受けた。

そして私が昨年の11月30日から入院をし、病院で年を越してしまった。

そして、私が退院して1週間もしないうちに、父が飼い猫に噛まれた傷が原因で入院してしまった。

 

母の足の壊死の原因を作ってしまった、飼い猫の噛み傷。

飼い猫に罪はない。

自分に責任、原因があると言い聞かせ、平静が保てるようにしようと思いながら自分の感情が乱れるのは、自分の中に溜まった小さなゴミから大きなゴミを吐き出していない、そして思い込みや執着、整理しきれないぐらいの雑念に振り回されている事に気付いた。

自分を後回しにし過ぎて、自分の手当てをする事なく、戦のように生き進んできたのがいけなかったのかもしれない。

 

平成7年から闘病生活が始まり、平成9年にあなたは入退院を繰り返していく事になるだろう、もしかしたら長男が成人するまで、40歳まで生きられないかもしれないと主治医に言われた。

その言葉が、私の中に大切なものを生きて守るか、死んで守るかという思いが、考え方が自分の軸になった。

 

今は49歳になり、生きて守るしか方法は無い。

死んで守る方法は使い果たして無いに等しい。

 

大切なものを守るためには自分を、生き方を変えるしかない。

昨日、じぃちゃんの様子はどう?病院はどうだった?と入院中の父を気にして長男が電話をくれた。

貴女も、これからは自分の生き方を変えなくてはいけないねと長男に言われた。

 

貴女が倒れてダメになったら、皆、崩れてダメになるんだよ。

 

わかってる。

倒れるわけにはいかないし、生きて守る方法しかないと思ってる。

 

でも、死ぬ事しか考えて生きてこなかった自分が、40歳を過ぎても生きてる自分に驚き、生き方がわからず模索していた時にある占い師にみてもらった。

 

貴女は本当は38歳の時に死ぬ運命だった。

そのような出来事があったでしょう?

 

あった。

自分でも、もう目が覚めないと思った。

これで終わりだと。

これで楽になれる、開放されると。

4日間眠り続けて目が覚めた時は驚いた。

主治医も看護師も、皆、驚いた。

 

でも、貴女は突き抜けたの。

ぶち壊して突き抜けた。

貴女は長生きする、100歳まで生きるかしら。

これからは生きるための生き方を考えなくちゃねと。

 

100歳まで生きたくはないけれど。

 

それは難しい課題だと放棄してきた。

自分を大切にする生き方がわからなかった。

 

今、コロナウィルスという騒動の中、仕事減、自粛という空いた時間ばかりが増える中、自分を、生き方を変えるチャンスは今しかない。

 

苦しくても、辛くても、徹底的に自分と向き合っていかないと、大切なものの本当の笑顔は見る事ができないような気がする。

 

逃げたいけれど、逃げはしない。

勝てなくても、負けはしない。

 

ばぁちゃん、どうか勇気と行動、導いて下さい。

 

 

 

母の死

2020年(令和2年)3月28日、79歳の母が亡くなった。

思ってもいない程に突然で、あっけなく、穏やかな顔をして眠ったように逝ってしまった。

 

まだまだ生きるはずだった。

家に必ず連れて帰ると約束をした。

自分の両足できちんと歩いて。

 

~ お前は嘘つきだ ~

 

1月の終わりか、2月の前半に母に言われた言葉。

 

私は嘘つきじゃない・・・・!!

そう、言ったのに、言い返したのに・・・

 

嘘つきになってしまった。

 

2018年の11月12日に入院をしてから1年4ヶ月。

生死を彷徨い、何度も厳しい選択と決断を迫られ、跳ね返してきた。

貴女の足と命は失いはしない。

なに1つ、大切なものは失わない。

だから、粘りと根性、愛と光と忍耐。

やれる事はなんでもやろうと思ったし、やった。

 

貴女も頑張った。

本当に頑張った。

高齢にも関わらず、貴女の頑張りは素晴らしかった。

 

何人もの医者が足の切断を何度も強要してきても、貴女は私を信じ頑張ってくれた。

足は切断しない。

貴女の命も持っていかせない。

足は時間が掛かっても必ず治す。

 

足の壊死は絶対に治らない。

そう言い切っていた医者が、もしかしたら治るかもしれない。

そして、良くなってきたね、あともう少しだから頑張って!!

と、言葉が変わっていった。

 

貴女の足の傷が蘇生し、治りだしたから。

 

貴女がリハビリを毎日頑張って続けていたから。

 

食欲も衰えることなく、全部食べていたから。

 

寝たきりになるのではなく、車椅子で一日中過ごし、院内を動き回っていたから。

 

元気に明るい貴女の姿が、医者や看護師を変え、環境を変えた。

 

入院当初は真っ黒だったオセロが、白に変わっていった。

あともう少しで真っ白になる。

でも、黒い数個のコマは、霞んで見える。

 

何度も転院、もしくは退院をするようにと回りくどく押し迫られる度に牙をむいて吼えた。

 

何故なら、私が入院中に起こった母の闘病生活の始まりだから。

 

今、思い出せば怒りと、吐き気と、自身の生きるか死ぬかの選択の連続だった。

 

震えてしまうほどの、長い戦いであった。

光は小さく見えていた。

黒いオセロも順番にひっくり返したのに。

あともう少しで家に連れて帰れる。

乳癌に勝てた自分を褒めていた時だった。

平成7年から膵臓と戦い、40回を超える入院をしてきて、逃げなくて良かったと思っていた矢先の事だった。

 

今、思えば、コロナウイルス騒動に巻き込まれ、不安と恐怖という闇に飲み込まれ、自ら命を絶ったのではないのかなと思う。

 

それは、戦中に生まれ、戦後に生きた人の思いや想い、多くの念いを重ね合わせ、重ね合わせた最期の選択だったのかなと、今、母の意識に合わせて感じてる。

 

私の中では、泥沼で闇しか見せぬ母だった。

でも、最期に、泥沼の中に蓮の花を咲かせた様な人だった。

 

そして、貴女がずっと、闇の中に隠してきた沈黙が、少しずつ剥がれ、一枚一枚、剥がれて見えてくるもの、真実。

 

妹の震えながら泣く涙。

そして、思ってもいなかった苦しそうに吐き出す言葉。

 

私には知らせなかった、貴女の中の格闘。

 

親よりも先に死ぬ事は許さんと、私を何度も奮い起こして目覚めさせた貴女の力。

 

そして、3年程前、闘病生活が本格的に始まる前に、「お前が守をしてくれるのか、私を看てくれるのか」と言った言葉。

 

私は愛されていたんだと、貴女の深い愛の中に身を埋める。

 

そして、貴女は我が子全てを愛していたと同時に、不安と寂しさという孤独の中で、私の子供達の中に希望の光も縋る想いで見出そうとしていた。

 

本当なら、私の方が先に死んでいてもおかしくないシナリオだったのに。

 

貴女は私に大変な役割を残していった。

 

スルーする事もできるが、貴女が肉体から魂が離れる時の、死の直前の眼は頼むぞと、頼んだぞという、何ともいえないもので、貴女が逝って50日際が過ぎた後でも、貴女の遺影に話しながら言い訳を探している自分もいる。

 

貴女を超えられる時は来るんだろうか。

超えなければ、皆の笑顔は手には入らないね。

 

本当に欲しかったものは、

温かい、優しい家族。

寄り添ってくれる家族。

 

ずっと、柱できたからね。

とてもよくわかる。

 

貴女の代わりに私が必ず叶える。

 

どうか導いて下さい。